女だから言えること | 引きこもり、精神病からの生還

太ったおじさんみたいなおばあさんです。キレキャラとおふざけキャラと真面目キャラを分離する才能がないので、丸ごとの自分を出してます。

困ったら、助けてと言えること

 

■今日は、はてなーの嫌いな、改行と句読点の多いポエミーな文章です。

 

夫と一緒に暮らすまで、

私は

何でも自分でやらなければいけないと思っていた。

 

やや、注意欠如多動性障害(ADHD)ぎみで

ひどい精神病なのに、全てを自分で抱え込んでいた。

 

家の中で、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、と、

ひとりでパニックになっていると、

夫に聞かれた。

 

「なんで、助けてって言わないの?」

と。

 

そんな発想がなかった。

気が付いたらひとりだったから、

少なくとも、家の中ではひとりだったから、

家の中で困ったときに、

人に、

「助けて!」と頼む、

そういう発想がなかった。

 

それからは、

困ったことがあったら、

夫に

「助けて。」

と言うようになった。

そうすると、夫が助けてくれる。

 

私が、夫に、

「 なんでそんなに優しくしてくれるの?」と聞くと、

「家族だから。」

という答えが返ってきた。

 

私は家族というものがどんなものだか知らない。

だから、正直、私にはよくわからない感覚だ。

 

夫は私に

「ららちゃんは俺に無償の愛をくれた。

 だから俺は絶対にららちゃんを裏切らないし、

 裏切れない。」

と言う。

 

だけど、私には

「夫に無償の愛を与えた。」

という感覚がない。

 

今、ふと思った。

 

私の夫に対する

「何でそんなに優しくしてくれるのか分からない。」という感覚と

夫の私に対する

「ららちゃんが俺に無償の愛を与えてくれた。」という感覚は

同じものなのかもしれないと。

 

たぶんだけど、

お互いに、もらっている感覚はあっても

与えているという感覚が薄いんだと思う。

 

もしかしたら、これのことを

「家族愛」

って呼ぶのかな?と思った。

 

おわり

 

結婚・同居しなくてもパートナーシップは持てるよ

 なんか、この増田の追い詰められている感じが気になったので、書いてみた。

 

■別に結婚する必要はない

 私も自分は一生結婚しないと思っていた。今は一応、「婚姻届」を役所に提出していて、夫と結婚の形態をとった生活をしているが、それは本当にうっかり「婚姻届」を提出してしまっただけで、正直どっちでもよかった。今のところお互いに一緒に暮らしたいと思っているので、その気持ちを大切にしているだけ。今、夫に籍を抜いてくれと言われれば「あーいいよー。」というだけだ。

  私は、20歳の時には、すでに「独身主義」を公言していた。友人、職場、全ての場所で一生結婚するつもりはないと吹聴していたのだ。ついでに「40歳まで遊べるだけ遊んで、40歳までに死ななかったら、俗世と縁を切って尼になる。」と、冗談半分、本気半分で吹聴していた。繰り返し繰り返し「私は独身主義だ。」と公言していれば、「そうはいっても、結婚はいいものだよー。」的なことを言う人はいなくなるので、そうすればいいと思う。それでも、言ってくる人には「しつこい。やめて。」と言えばいい。少なくとも私はそれで言われなくなった。

 私は40過ぎで初婚だが、 正直、恋愛好きで好きな人ができたら、すぐに相手の家に転がり込んで半同棲生活を始めるという習性があった。だから、何回かの同棲生活で籍を入れていたとしたら、何回かの離婚歴があったと思う。私は独身主義だったし、体力的、精神的に子供を育てられる気がしていなかったので入籍する必要を全く感じていない。それは、うっかり入籍してしまった今でも同じだ。

 

■パートナーと結婚する必要も同居する必要もない

  私は20代から恋愛好き、独身主義を公言していた。今は別居婚、通い婚などをする人も一般的になってきたが、昔は「結婚=同居」という考えが主流だった。だから、私も結婚したら同居しなければいけないものだと思い込んでいた。だが、25年ほど前に知り合った中年夫婦が実は結婚はしておらず同居のみで20年という話を聞いて、いろんな結婚の形態があるものだと驚いたことがある。

 

25年ほど前に、

1複数の結婚していないけど、同居している夫婦に出会った。

2複数の結婚してるけど、同居していない夫婦に出会った。

3イスラム教徒の彼氏に2番目の妻になってくださいと言われた。

 

 これらの体験を通して私の結婚感は、「家父長制」を中心とし、同居を前提とした結婚観から大きく外れていった。1、2、のケースの夫婦とも非常に仲が良かった。

 1のケースについては少なくとも「離婚が面倒だから」という理由で別れることがないわけだから、本当に一緒にいたくて一緒にいるわけだ。法律にしばられもせず、他に好きな人ができたりせずに何十年も一緒にいるってすごいなーと思ったのを覚えている。

 2のケースは、夫婦同士の距離感を取るためというのもあるが、私が一番印象に残っているケースは、妻の親と同居つまりサザエさんでいうところのマスオさん的立ち位置で、妻の親との折り合いが悪くて別居しているケースだ。このおじさん、ある会社の支店長として日本と転々としていた人なのだが、ある飲み屋で知り合い、時々朝方まで一緒に夜遊びをする仲になった。一緒に話をしていると何十年も一緒に住んでいないのに、とにかく妻のノロケ話ばかりするのだ。妻は料理が上手い、妻は頭がいい、妻は美人だ、どんなふうに美人かというと…と、本当にそればかり、挙句の果てには「今年は2回しかセックスしてないけど、その2回とも妻とだよ!」と、嬉しそうに話すのである。いかに自分が妻に対して貞節をつくしているかを自慢するのだ。

 20~30年前に知り合った中年夫婦の話なので、もうすでに何人かの方はお亡くなりになっている。結婚(入籍)していなくても、最後まで一緒に暮らした、最後までパートナーシップを持ち続けたという意味では、一生添い遂げたといっていいだろう。このような形のパートナーシップもあるということを知っておいて欲しい。

 

■結婚しないことの不便さ

 私たち夫婦には子供がいないので、結婚しないことによる子供や子育てに与える影響がどんなだか知らない。ただ、「子供を持つ」なら、税制優遇などの点で結婚していた方がお得だとは聞いたことがある。

 個人的に入籍前の同居時に不便だったことは、私が救急車で運ばれた時に、姓の違う男性(=現在の夫)が病院に来ても、私の意識が回復して「○○さんはお知合いですか?お会いになりますか?」と確認をとってからでないと面会できなかったことだ。もしかしたら、面会前は個人情報保護のため、私の安否や病状も教えてもらえなかったかもしれない。

  私には頼れる親族がいないので、救急車、入院みたいなことが起こると、頼れるのは血のつながっていない他人。だから、保証人、身元引受人、最低限の身の回りの世話は、勤め先の社長、複数の友達に頼んでいた。結婚したら、それら全てを夫に頼めるようになった。一人の友達に全部を頼むのは気が引けるし、複数の友達に分散して頼むのも気が重かった。そう考えると、結婚して家族になるということは便利なことなのかもとは思うようになった。

 

■自分らしく生きられない人

「仕事ができない奴と思われたらどうしよう」

「つまらない奴だと思われたらどうしよう」

「ダメな息子と思われたらどうしよう」 

 あたりの発言から見ると、増田は家族、恋人、友人を問わず、相手の機嫌をとろうとしすぎ、相手の期待に応えようとしすぎのように見える。もっと言えば相手はそこまで増田に求めていないかもしれないのに、増田が勝手にサービスを求められていると感じ、脅迫的に相手にサービスをしなければいけないと思い込んでいるようにも見える。

 このように、親しい人間の前でさえも、自分らしくいられない人というのは一定数いて、やはり生い立ちに、何かしら「自分らしくいると愛されない(嫌われる)」みたいな体験をしている人が多いような気がする。だからこそ、「嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え」がヒットしたのだろうとも思える。だが、この増田の場合は少し、それだけではない気がした。

 

器用すぎる増田

 この増田に対して思ったことは、器用すぎることが仇(あだ)となっているということだ。人間は多面的だ。優しい時もあれば、機嫌が悪い時もあるし、社交的な時もあれば、引きこもりたい時もある。少なくとも私は不器用なので、それら全てを、関わりのある全員に見せてしまう。楽しい時は楽しいと言い、しんどい時はしんどいと言い、面倒なことを言う人には面倒だと言い、悪い言葉遣いをする人にはあなたの言葉遣いが嫌いだという。そして、私の態度が気に入らない場合、相手は去っていく、それでいいと思っている。だって、私にはそうしかできないのだから。

 だが、この増田は私なんかより、はるかに器用だ。

「常識的、積極的、社交的、面白い」と思わせたい相手に、そのように思い込ませるだけのテクニックを持っている。そして、逆に「陰気な小心者である自分」は一部の気を許した相手にしか見せないという高等テクニックまで持っている。これが仇になってしまっている気がする。

 私のようにうまく人柄を演じきれない人間は、全てをさらけだすしかやりようがない。しかし、この増田のように多面的な自分の、どの部分を誰に見せたいかをきっちり演じきれる人にとっては、この「演じる能力」があるがゆえの苦しみが生まれるような気がした。

 

好きな人に自分のいい所だけを見せたいのかも

 「数少ない心を許している友人」には「弱い自分」をさらけ出せるわけだから、たまたまそのような心の許せる女性に出会ったら、お付き合いをすればいいだけの話で、「付き合った女性にはサービスをしなければいけない!」という思い込みが、この増田にとって、恋愛や結婚を面倒なものにしている気がする。

 結婚はしなければいけないものでもないし、恋愛の延長である必要もない。一緒にいて落ち着けるから一緒にいたいと思ったら、独自のルールでパートナーシップの在り方を決めればいいだけで、結婚、同居は必ずしも必要だとは思わない。もちろん必要だと思えば、入籍、同居をすればいい。これは、パートナーシップを結ぶ当事者間の問題であって、例えそれが家族や友人であっても、そのルールに対して「それは違う」などと言われる筋合いはない。非常にデリケートでプライベートな、二人だけの約束だからだ。

 作家の中村うさぎ氏は女性で、ゲイの男性と結婚している。要するに互いに「恋愛・肉体関係」のあり得ない相手との結婚である。この二人は「家族的な愛」に主軸を置いた結婚をして、長年連れ添っている。そういった関係も含めて、世の中には「夫婦の形は色々」「家族の形は色々」という言葉があるくらいに、パートナーシップのあり方は様々だ。もちろんパートナーシップを持たない選択をする自由もある。(同性婚が導入されれば)異性愛、同性愛関係なく、そうだと思う。

 

オチのつけ方が分からない

 なんとなくだけど、「弱い自分」「陰気な自分」を他人に見せてはいけないという感覚が男性の心理的な自立をはばむ「男性の解放(メンズリブ)」につながっていて、「女は愛嬌」「女はかわいい方がいい」みたいな感覚が「女性の解放(ウーマンリブ)」につながっていて、最終的には「人間の(心理的な)解放」につながっていると思う。

 また、何が言いたいか分かんなくなってきたけど、この増田には「心理的に解放されていない何か」があるように感じた。というオチにしておきます。

 

あ、そういえば、私の好きなかんどーさんとこが「結婚制度」を利用しないパートナーシップだった、と思い出したので貼っときます。

人生に迷う女性におすすめの4冊の本

「橋をかける」 美智子

 私には、憧れの女性が2人います。お一方は美智子妃殿下、もうお一方は神谷美恵子女史(心理学者でハンセン氏病患者の心のケアに尽力した方。)です。神谷美恵子女史については後に書くとして、このお二方の生き方や文章は非常に優しく女性らしく凛としてたくましい。

 実は私がこの文章を知ったのは、1998年9月、インドのニューデリーで開催された国際児童図書評議会第二十六回世界大会において、ビデオテープによって上映された美智子妃殿下の基調講演をテレビで見たからでした。このスピーチは美智子妃殿下の子供時代の読書体験をもとに「子供の本を通しての平和」をテーマに書かれたものです。スピーチの内容、美智子妃殿下の優しい語り口、そのあまりの美しさに感動で涙が出てしまったような記憶があります。私の家にテレビを録画する設備がないことをとても悔しく思ったものです。

 そして、そのスピーチに感動した方が多かったのか、しばらく後にその内容が「橋をかける」という題名で出版されました。私は、それを知ってすぐさま本屋に走ったのでした。

 この本では、「本」が与えてくれるものは、知識のみならず、喜びや悲しみ、心を動かされる体験や癒しなど様々だと分かりやすく説明されています。また、美智子妃殿下が子供時代にどのような本を読んでどのように感じたか、また、その読書体験がご自身の考え方にどのような影響を与えたかについても書かれています。良くも悪くも、「本」は人間の人格形成に計り知れないほどの大きな影響を与えます。そういった意味で、人生においての「本」への親しみ方、たずさえ方を指し示してくれるこの本は、とてもすばらしいと本だと思います。また、美智子妃殿下独特の優しく美しい語り口も是非楽しんでいただきたいと思います。

橋をかける―子供時代の読書の思い出

橋をかける―子供時代の読書の思い出

 

 

 生きがいについて 神谷美恵子

 この本を書かれた神谷美恵子女史は心理学者でハンセン氏病患者の心のケアに尽力した方です。また若き日の美智子妃殿下の相談役としての立場にもおられました。ハンセン氏病=らい病について私は良く知らないのですが、容姿が大きく変わり体のいくらかの部分が膨れ上がったり色が代わったりする症状については見たことがあります。宮崎駿の「もののけ姫」で包帯をまいて銃を作っておられた方々はハンセン氏病の方たちがモチーフであると思われます。

 実際には空気感染はしない病気だと後に判明するのですが、空気感染し母子感染すると考えられて時期があり、その時期はハンセン氏病患者には強制隔離政策がとられていました。空気感染するという誤解から家族から引き離され、母子感染するという誤解から子供を作ることも許されないという過酷な状況。また、その容姿の変貌から差別を受けやすく、無癩県運動(むらいけんうんどう)等により、ハンセン氏病への偏見は強まる一方でした。

 そういった偏見が強まったため、ハンセン氏病の家族ですら、自分達の「家系」から「らい病」が出ことを隠したいがために、彼らの存在自体を世間に隠す、療養所に送り込んで存在そのものを消してしまうという差別を余儀なくされていたのでした。

 このような「生きがい」というものを全く見失ってしまいそうな隔離社会においても、一部の患者は今現在自分の置かれている場所で、やるべきことを見つけ、あるいは作り出し、それに「生きがい」や「やりがい」と見つけていきます。そしてある人たちは、「人生など時間つぶしにすぎない。」と卑屈になりニヒルに逃げます。そういった人達の間にはどういった違いがあるのか?生きがいを失った人たちはどういった機会にもう一度生きがいを取り戻すことが出来うるのか、そういったことの書かれている本です。

 これはハンセン氏病患者に限らず、一般社会でも同じようなテーゼがあるように思います。人生の「生きがい感」「無意味感」は、どこで、どういった機会に、何によってもたらされるのでしょうか。例え、それが、社会からドロップアウトしたように見えるホームレスの方々であっても、同じ公園や川辺に住み、人が集まり始めると、そこに社会ができ、秩序をたもつためにルールができてゆくようです。そしてまた、小さな共同体の中で同じような問題が起こります。

 私自身も病床のおり大規模MMOというタイプのインターネットゲームに依存していました。そこに人が集まるかぎり、例えバーチャルであっても社会ができ、人間関係ができ、そこに「居場所」や「やりがい感」を求めてしまいまいた。持病があり体が動かない事情はありましたが、今となっては、実社会に実態を持たない「居場所」や「生きがい感」は非常に危険だっと思います。少し、話がそれてしまいましたが、人生の「生きがい感」「無意味感」のヒントがたくさん書いてあるので、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

 

 

生きて行く私 宇野千代

 私にとって、上記のお二方は上品すぎて、とても手の届かないような憧れの存在ですが、宇野千代氏、瀬戸内寂聴氏は、まるで自分を見ているような親近感や共感を持ってしまう存在です。

 

私の持論で、人にとってもっとも辛いことは

・自分らしく生きられないこと
・自分に嘘をついていること
・愛されていないと感じること

だという考えがあります。

 

 少なくとも私はこの3つの全てに当てはまってしまったら死んでしまうか、狂ってしまうのではないかと思います。宇野千代氏は明治生まれの方で、まだまだ女性に対する制約の多かった時代に、まるで現代人かのように自分の人生をいきいきと鮮やかに生き女性です。(特に男性からの)愛情を獲得することに貪欲で、自分の気持ちに正直に生き抜いて亡くなられました。

 世間で一般的であるとされている道徳観や倫理観などは気にかけず、「自分の気持ちに正直に生きる生き方」は、世間様の強い反感や嫉妬をかったであろうし、多くの常識人とされている人々を不愉快にさせ、傷つけ、巻き込んでいったに違いありません。

 それでも、宇野千代氏の生きる姿勢は常に悪気がなく、明るく、あっけらかんとしていて、どんなに非常識で無茶苦茶をしていても、どこか憎めない愛される何かを秘めています。「生きていく私」はそんな宇野千代氏の自伝的著書です。周りの人間が自分をどう評価しているかなど全く気にせずに「自分の人生を生きる」という、いさぎよい生き方。そして、愛するということ、創造するということに、全ての情熱を注いで、他のことに目もくれない一途な生き方。是非、堪能していただきたいと思います。

 また、宇野千代氏は、どんなに年齢を重ねても、どんなに苦境に立っても自分を信じ、人生を楽しみ、「生きることは行動すること」と言い切り、その生涯に渡って、何かしら行動し続けました。ああ、何歳になっても好奇心と自己肯定感さえあれば、何とかなるもんだなぁ…と、不思議な勇気が沸いてくる一冊です。

生きて行く私 (角川文庫)

生きて行く私 (角川文庫)

 

 

ひとりでも生きられる 瀬戸内寂聴

 人というものは社会というものに放り込まれると、おのずと自らの所属する社会の「道徳観、倫理観」と「自分の信念、自分の道徳観、倫理観」をすり合わせながら、バランスをとって生きていかねばならなくなります。

 瀬戸内寂聴は、それらの体験や葛藤を(私)小説やエッセイで描くのが、とても得意な作家だと思っています。そして、あまりにも正直に赤裸々に持論を展開するため、その時代時代で波紋を呼んだのですが、その行動力がまた、爽快です。

 出家なさった後だからこそ書けることかもしれませんが、彼女の人生は火のついた石ころのようなもので坂道を転がり落ちていきながら、周囲の多くの人たちを巻き込んで、さらに大きな火だるまになって、速度を上げて転がり続ける、私にとってはそんなイメージがあります。

 恋愛の場数を踏んだ人間なら、恋愛に既成の道徳観や倫理観など通用しないことなど分かりきっていることでしょうし、逆に恋愛というものがそれほど収拾のつかないものだからこそ、それぞれの社会で道徳観や倫理観、法律などで厳しくそれらを戒める必要があるのだとも思えるでしょう。この「一人でも生きられる」は特に「愛」や「恋愛」について、また男と女のありようについての寂聴氏独特の持論が展開されています。

 例えば上記のように倫理観や道徳感を飛び越したところで大きな火だるまに巻き込まれたとして、あるいは巻き込んでしまったとしましょう。私自身がそういうタイプだからそう思うのかもしれませんが、その時に怒り、悲しみ、深く傷ついたとしても、その一瞬に全ての情熱を注いだその時間というものは、私にはかけがえのないもので、ひとかけらの後悔もないのです。そして不思議と甘美な思い出になってしまったりするのです。そういったところが、私と瀬戸内寂聴をつなぐ共通の感覚なのではないかと思うのです。言うほど場数は踏んでませんけどね…

 恋愛にしても、人生にしても、人は常に、これでもかというくらい、次々に決断をせまられます。一時的には「決断」から逃げることはできますし、「決断」を人にゆだねることもできます。ですが、決断から逃げれば状況は変わらないし、人の言うことをうのみにして失敗した人は、その相手を一生責め続け、自分をかえりみようとしなかったりします。そんなことにならないためにも、是非この本を読んでみてください。

 恋愛や不倫、夫婦生活に迷う人々に、決断のヒントをもたらしてくれる良い本です。 

ひとりでも生きられる (集英社文庫)

ひとりでも生きられる (集英社文庫)