女だから言えること

日記&遺言

正論について


 どーしてもこの記事が気になったので、メモしておく。

 

 私個人は、プライベートでのコミュニケーションというのは、雑談、相談、愚痴聞きに利用していて、そもそもプライベートで議論をしない。し、する必要がない。そもそも私は人と一対一で合うことが多く、パーティーなどにお呼ばれしても一対一でしか話をしたくないので、ほぼ一対一で話す。集団で話をするのが苦手で話の輪があったとしても入らないので、大人数で話をする場面はほとんどない。

 

 私自身は正論というのは議論のたたき台として必要なだけで、議論しない場合は必要ないと感じている。そして、上記のように私はプライベートな時間に議論をしないので、仕事もしておらず、組織に所属して社会活動もしていなければ議論することは皆無と言っていい。

 私は頭が良くないので、そもそも議論が好きじゃない。ので必要なときしかしたくないのよ。で、私が考える議論が必要な時ってどんな時かというと、一つの条件として「利害」が絡んでいる時。もっというと、「利益や利権の取り合いになっている時。」ということがある。

 利益や権利を相手から奪い取るには相手を、言論なり暴力などで負かさなければならない。いやいや、普通に生きていてそんな場面有るか?とお思いの方もいるかもしれないが、個人同士の付き合いなら、そんなことをしなくてもいいことが多い。

 だが、これが集団、組織となると話が違ってくる。個人同士なら話し合いで穏便にはんぶんこということもできるが、組織が大きくなればなるほど、組織を維持する費用がかさみ大金が必要になる。まず、その費用をどこから持ってくるかで、組織内で揉めるだろう。さらに、その費用を用意できたとしても今度はその費用をどういった方針で何にいくら使うかで揉めるのは確実だ。ここで組織と言っているのは、小さな事務所~大企業でもあるし、利益を出してはいけないことになっているNPO(非営利団体)も含む。だし、私個人は「家族」という、「組織」とは言えなさそうな小さな「集団」でさえも、このくくりに入れている。

 組織が大きくなればなるほど、人も増えるから考え方も色々だ。Aさん(orA派閥)は◯◯に◯円使いたいといい、Bさん(orB派閥)は□□に◯◯円使いたいという、といった場合は当然、どちらかが主導権を握らなければいけなくなる。折衷案が出たとしてもだ。

 そうなってくると、相手を言い負かして勝つ必要がある。いわゆる「論破」というやつだ。相手を論破して言い負かさねばならない場面というのは、私の中では利権、主導権などの権利の争奪戦が真っ先に思い浮かぶ。そうった時には双方が「正論(と仮定した)」論を持ち寄って、そこから議論していくしかないとは思う。

 これは、会社組織などの営利団体だけでなく、NPOなどの非営利団体でさえも、費用、運営方針、教育方針の違いのために相手(派閥)を論破する必要が出てくると思う。そのために組織というものは頻繁に「会議」という議論の場を設けるし、少なくとも1年に一回は「総会」的な何かしらの大きな会議も開催しているように思う。

 上述した通り、会議では「正論」をたたき台に議論をすり合わせ、相手を論破して決定権、主導権などを取りに行く必要があると、私は思っている。だが、だ。会議以外の場面で議論したり、正論を利用する必要があるのか?とも思う。

 私は最初のほうに書いたとおり、プライベートでの「会話」はコミュニケーション手段、つまりは意思疎通の手段として使っているので、論争自体が必要ない。というか、何らかの組織に関わらないかぎりは論争する場面を見ることすらない。論争がないので正論も必要ない、というのが現実だ。少なくとも、平凡なおばちゃんである私のプライベートな生活圏/生活時間帯では、NET以外では正論を見聞きするとがないし、議論も起こらない。だって、勝ち負けが必要ないから議論も必要ないんだもん。

 みんな、ただただ「私なら、こう思うよー」「私なら、こうするよー」という個人的な意見や手法があるだけ。そして、それを語り合い、参考にするだけ。つまりは、「個」があるだけ。対話とは「個人」対「個人」がするものである、ということにつながっている話だと思う。ただ、夫への条件交渉や説得はする。が、それは議論ではなくただの「交渉」だから、少し論争とは違うかな。

 

 で、最終的に思うのは「正しい論」というのはその時代に、その場所で、その人あるいはその集団にとって正しいだけで、時代、地域、文化、人が変わればすぐさま変わってしまう程度のものだということ。

 一応今の日本では、人を殺してはいけないし、自殺はしないほうがいいというのが「正論」のように扱われるが、「斬り捨て御免」「口減らし」といったような概念で武士は人を斬り殺しても良く、親や産婆は子供を殺してよい時代、「切腹」などで自分を殺しても良い時代には、それは正論ではなかったかもしれない。

 「いや、人を殺してはいけないのが正論で戦国時代の人が間違っていた」という意見もあるかもしれないが、戦国時代の人達から言わせれば「この戦乱の世で、人を殺しては行けないとは何と非常識な。」という正論が返ってくるだろう。相手を殺さなければ自分が殺される時代に、人殺しは良くないなんていう考えは確かに社会背景を加味すると、正しい意見とは思えない。

 

 この映像を見てほしい。三島由紀夫氏はコテコテの右派で、東大全共闘はコテコテの左派だ。右派にとっての正論は右寄りだし、左派にとっての正論は、当然左寄りだ。というわけで、議論をしようとしても意見が交わらないというか、かすめてさえもいないように見える。これを見る限りはね。

 

ブコメに

 正論同士で正々堂々とチャンバラできるならそこまで切りかかってもいい気がするけど。それ以外はね。

というのがあった。私は「それ以外はね」という言葉の行間(?)を「それ以外の場面では必要なくないか?逆に揉め事の原因になるんじゃないか?」というふうに読んだ。そうだと仮定すると、本当にそうだと思う。

 

 上記の映像は正々堂々とちゃんばらした結果で、はじめから「正論=決まった答え」を持った人同士が話をしても、こんな感じに終わるというのを見せつけてくれている気がする。他者と見解をすり合わせる気などサラサラなく、自分こそが唯一絶対の正義だと主張したい人間なんて、そこら辺にゴロゴロいるからね。

 

 正論とは違って「本質」という言葉がある。今の所、「天動説」「地動説」では、「地動説」のほうが本質的な答えだと見る人が多いと思う。本質というのは簡単にいうと、物事を解明していく際の「正解」と言って良いと思う。この場合の「物事」とは目に見える「物質」と、目には見えない「現象」の両方を指している。

 一般社会では、「正論」と「本質」が同じようなものだと認識している人が多いように感じる。本質とは物事に対する問いへの「正解」であり、正論とはあくまでも一つの「論」にすぎない。私は、それが大きな違いだと感じている。「正しい論」と書いて「正論」ということは、その人個人がこれこそが正しいと思って組み立てた「論」にすぎないということだ。もっと要約すると、人が作ったものに過ぎないということ。

 

 それとは逆に「本質」というのは、世の中に存在している物質や現象について紐解き、これこそが「正解」だというものを探して見つけるものなので、「正論」とはまた話が違う。

 というか、「本質」について議論する時こそ、各々が各々の正しいと思う「論」、つまりは「正論」を持ってこなければならない場面なのだろうと思う。

 

  利権がらみ以外の論争については、学術的な場での「どの論が正しいか」という論争がパッと思い浮かぶ。学術の場は、そもそもが数学・物理のように正答は一つしかないと設定されていたので、我こそが正しいと「正しさ一位」の座を狙わなければならないような風潮があるような気がする。

 近代は社会学などのように、答えがひとつでない学問も沢山でてきているので、アカデミックな場で論を戦わせる方々にとっては非常に大変な時代だとも思う。さらに医学・薬学などは、体質・特性・症状の個体差がバラエティに富んでおり、その差の値も個体によって少しずつ違いそうだ。だから、一つの答えなど出しようがない。ので本当に大変だと思う。

 

 が、しかし、だ。一般的な生活をしている普通のおばちゃんの私は、仕事や社会活動以外で議論すること自体がないし、アカデミックな場なんていうのは全くご縁がないので尚更議論する必要がない。

 

 というわけで、正論も議論も関係ない世界に住んでいるというお話でした。今日も活きるの、だりぃー。