この話に関連して、もうひとつ忘れられない思い出を書いておきたい。
前回の記事に書いたように私の母は、女性嫌悪でDV夫の父から逃げるために家出をしたが、父はストーカーとなり逃げた母を探し回っていた。
母は親族の家に身を隠しても見つかるであろうことから、母にあてがわれた職場に近い、見知らぬ土地で私と共に暮らしていた。母は父に見つかり連れ戻されること、暴言や暴力を振るわれることを非常に恐れていて、道を歩いていても父が現れるのではないかとビクビクしているほどだった。特に大通りではキョロキョロしながら、父がいないか確認するほど怖がっていた。
それに、当時は携帯電話など存在せず固定電話しかない時代だったが、当時は電話を設置すると、自動的に電話帳に名前が載ってしまうため、母は電話も設置しなかった。さらには、住民票を移すと、それを手がかりに父親に捜索されてしまうので住民票も移さず、その土地に移り住んでいた。それほどまでに警戒するということは、それほどまでに恐怖とトラウマを感じていたということだ。
ちびっこの私はある日、幼稚園から帰っていた。昔は幼稚園に親の送り迎えは必要なかった。地域が見守ってくれるという前提があったからかもしれない。私が幼稚園から帰っていると、なんと、そこに父が現れた。
一瞬、気が付かなかったが、私の前に立ちふさがったので気づいた。
「あ、とうちゃん…」
どうしていいか分からなかった。母には「私がとうちゃんを倒す。」とか言っておきながら、目の前に現れると、どうしていいか分からなかった。私は母が父を異常に怖がっているのを見て父が「悪い人」だと思いこんでいただけで、私自信は、まだちびっこだったので危害を加えられていなかった。だから、とても穏やかな口調で優しく、
「お母さんの家はどこ?」
と聞かれ、あれ?思ったほど怖い人じゃないな…と思った。
だが、お母さんを守らなければいけない、お母さんは父さんを怖がっているから会わせてはいけないと幼稚園児ながらにも策を考えた。一瞬でだ。そして、母の家とは違う方向を指さして、
「あっち!」
と、教えた。そして逃げようと思っていた。
そうすると、父は
「あっちってどこ?本当はあっちじゃないでしょ?本当のことを教えて。お母さんの家はどこ?」
と言った。
私は幼稚園児だったので、返事をしなければいけないと思い、逃げることができなかった。そして自分の嘘が見透かされたのが怖かった。どんな嘘をついても見透かされるような気がして、怖くなって本当の母の家の方向を指して、
「あっち…」
と、白状してしまった。
すると父は、
「じゃあ、とうちゃんを母さんのところまで連れていって。」
と頼まれ、ちびっこの私は断れなかった。
そして、父を母のいる家に連れて行ってしまった。
母が
「おかえり。」と言うと、後ろにいる父を見て表情が変わった。そして私に、
「ららさん、ちょっと外に出ていなさい。」
と言った。
私は、外に出て、めちゃくちゃ後悔した。記憶はそこまでしかない。もしかしたら、その後、父が母を怒鳴る声が聞こえたかもしれないし、母の悲鳴が聞こえたかもしれないが、それは覚えていない。自分の責任を感じすぎて、記憶から抹殺してしまったのかもしれない。
私が父に母の家を教えたがために、きっと母はあの時に父にひどいことをされたのだろう。だから、その時に母は私を取り返す気力すら失ったのではなかろうかと勝手に推測していた時期もあった。
この時に、一旦父に連れられて父の家に行った気もしないではないが、おさなすぎて記憶が曖昧だ。行ったかもしれないし、行っていないかもしれない。だが、その事件がきっかけでもう逃げ回るのは不可能だという流れになり、(恐らく母方の祖母主導で)双方の親族を集めて会議をしようという話になったっぽい。そして、その会議の場で、母は決定的に子供を奪い取られることになる。
母もそのことをとてもよく覚えていて、大人になってから「あの時ららさんが父さんを連れてこなければ…」と愚痴を言われて相当にショックだった。だが、母にとってもトラウマとなった出来事なのだろうと、何も言えなかった。
でも心の中では「私だって、幼稚園児なりに母をかくまおうと嘘をついたのに…」と悔しい気持ちでいた。母はとても弱々しい人で、私は母に対して「私だって、あんなことやこんなことで苦しんだのよ!」なんて、とてもじゃないけど言えなかった。いつも、のどのところまで出かかった言葉を飲み込んでいた。
あの時、私は母を裏切った。その気持は一生消えない。普段はそんなことは忘れているのだが、時折思い出しては胸がぎゅーっとなってしまう。私は子供の頃に、子供には重すぎる色んなものを抱え、対応しすぎた。そのせいで人間の闇を早くから知ることはできたが、精神のアンバランスさも同時に持つ人間になってしまった。
母は頼れる人でもなければ、自分を守ってくれる人でもないと、小さい頃から分かっていた。だから、どんなに辛いことがあっても母に泣き言を言ったことはなかった。それどころか、母は弱い人だから私が守らなければと幼稚園の頃から感じていた。
私が20歳を超えて、かわいそうな母に会ってあげなければと、出来る範囲で会っていた時期があって、母は会えば必ず、父方の家で受けたひどい虐待の話を延々と愚痴った。「お父さんと結婚さえしなければあんな目には遭わなかった。あなたはちゃんとした人と結婚して、ちゃんと養ってもらって幸せになれ。」と無茶苦茶なことを言っていた。私はもうすでに、結婚さえしなければ余計なトラブルに巻き込まれないという考えの独身主義者になっていたので手遅れだった。
さらに、私は母が父方の家で受けたのと同程度の虐待を受けていたが、私は母の愚痴から母が虐待を受けていたことを知っていたが、私は母が悲しむであろうと父から虐待を受けていたことを母に言えなかった。だから、母は私が「父から同程度の虐待を受けていた事実」を知らなかった。母と私は同じ相手から同じ虐待を受けていたにもかかわらず、母は私にその内容を愚痴ることができ、私はそれを母に愚痴ることができない。その不平等さがとても悲しかった。
それに、母と私が父方から受けた虐待は全く同じ内容だったので、母の愚痴は私の地獄のような記憶をフラッシュバックさせた。母は私も同じ目にあっていたとはつゆほども思わず、伸び伸びと父(やその背景にある家柄)の愚痴を話し続け、私は数時間にも及ぶフラッシュバックに耐えなければならなかった。母の前では何とか平静を演じ切れても、母の家から出て母の愚痴から開放されると、私は心理的な負荷が限界を超え、母に会った帰り道にはストレスで嘔吐するようになっていた。
私の思想信条として「物の多く分かるほうが、多く我慢する。」というのがある。だから全く物の分からない母の気持ちを受け止めるのは私の仕事だ、と、ただひたすら耐えた。
あなた自身がそれだけの虐待にさらされていて、そんな夫や義母のいる家に、子供をおいて行ったら、子供も同じ目に遭うであろうということを何故想像してくれなかったのだ…という悲しみの中、私はただただ口を閉ざして彼女の愚痴を聞き続けた。「世の中の普通の大人ならできそうなことでも、うちの母にはとてつもなく高度なテクニックだったのだろう。この人にそんな高度な想像力やコミュニケーションテクニックを求めるなんて酷だ。」いつも、そう思って、自分の心を静めようとした。
だけど、ある時に、もう私の中では限界が来てしまい、耐えられなくなって、母と接触することを極力避けるようになった。私には、もうこの人の心理面のケアはできない。このまま彼女の愚痴を聞き続けたら、私が倒れると判断したのだ。
私の精神疾患はこういった幼少期の体験が比重を占めすぎていると担当医は言っている。だが、今から過去に向き合うには相当な苦しみを伴い、精神分析で過去を思い出すことによって精神のバランスを崩す可能性が高いので精神分析で根治を目指すことは、あまり、おすすめできないとも言われている。過去を掘り返して根治を目指すよりも、新しく良い思い出を上書きして過去を薄めていくほうがリスクが少ないと。
確かに、精神バランスの悪い時は、こんなに冷静にカウンセラーに過去を順序だてて話せる気はしない。相手がいて話さなければならない状態だと、感情が高ぶって号泣してしまうかもしれない。だから、こうやってブログで告白している。いずれ、これらをまとめてカウンセラーに見せる日が来るのかもしれない。